コラム

楽団の仲間たちのことを
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高松放送軽音楽団創設時・向かって前列左端アルト、サックスが私<24歳>
昭和33年5月県庁舎竣工記念行事出演のNHK高松放送軽音楽団を編曲指揮


昭和二十五年、NHK高松放送局に「放送のための管弦楽団」がつくられました。私も習いかけたばかりのサキソフオ−ンを持って参加しました。
バッハからブギウギ−まで、なんでも演奏する奇妙な楽団でしたが、やがて「高松放送軽音楽団」として当時はやりの「のど自慢コンク−ル」の伴奏や、ラジオの音楽番組に出演するようになり、そして偶然のことから私が編曲指揮を担当、気が付くとドップリ楽団にのめり込んでしまった私があった・・・・・・というわけでした。
のちに「RNCオ−ケストラ」、自分で主宰する「高松リズム・シンフオネット」での、放送・ステ−ジ・レコ−ド録音など、それからの約十年間に千曲に近い編曲があり、この苦闘の経験が、その後の作・編曲活動にとっても役立つことになりました。
スタジオで、ステ−ジで、共に汗を流した楽団の仲間たち、あれから四十幾年もの歳月を経て、当時ご協力、ご指導頂いた先輩の多くはすでにいない。
数年前からパソコンで、自分の創作曲の伴奏付楽譜、いわゆる「ピ−ス譜」を制作、「讃岐ふるさと歌ごよみ」とその続編。続続編の三冊を出版、約三百曲を収めて、現在判明している演奏者・歌唱者、録音関係者、作詞者、市町をはじめ制作の依頼を頂いた会社、各種団体の皆さんに、そして県市の図書館にも贈呈し、資料としてもご収納下さるようお願いしました。
パソコンに向かい合った三年間、私のからだの中には、曲毎に演奏の日々の情景が再現されていました。
見事なトランペットソロを聞かせてくれたYさん、サックスのセクションをリ−ドしてくれたHさん、歌手がいて、コ−ラスがいて、ミキサ−がガラス越しに副調で手を上げている。ご苦労さんでした。有難うございました。


ジャズ事始め
昭和二十年敗戦、空爆による瓦礫の街を彷徨う人の群れに「自由と民主の風」ならぬ「ジャズの風邪」が蔓延。アメリカ・イギリス映画で幾つかの高松市内の映画館は超満員。ダンスホ−ルも大賑わい、アルバイト楽士のアドリブ演奏にダンサ−嬢の盛り上げでお客も興奮する。当時高松市内にはグランドキャバレ−が数軒あり、十人内外のジャズバンドと数人のタンゴバンドまたは、夏場のハワイアンバンドが、それぞれのキャバレ−に専属となっていた。
昭和二十五年に発足した「NHK高松放送軽音楽団」は、ダンス好きのプロデユ−サ-が、これら楽団の中から選んだプレイヤ−を中心に結成された。公開録音や各種催しのほか、毎月の音楽バラエテイ−番組、隔月の四国四県向けのジャズメロデイ−<何れもラジオ番組>に出演した。
グレン・ミラ−、ハリ−・ジエイムス、トミ−・ド−シ−、フレデイ−・マ−チンのバンブル・ブギ−、当時、毎日コンク−ル入選のバリトン歌手が、ビギン・ザ・ビギンやミュ−ジカル「ショウボ−トからオ−ルマンリバ−」を歌うなど・・・・・楽器編成も三管から四管編成のフルバンドに充実され、企画によっては弦やラテンリズム楽器を加えることもあった。
でも、何といってもフルバンドの魅力は強烈なリズムに乗っかった、サックス・ブラスのセクションが出すハ−モニ−にある。
三和音には美しさや優しさがあるとしても、密集四和音のように、しびれることはない。<年甲斐もなく失礼しました>香川でも最近、ジャズ復活の機運が見えてきたのは嬉しいことです。戦後と違って、いい楽器、いいプレイヤ−と、羨ましい限りです。齢八十幾才、ジャズに未練の御爺仲間ともどもエ−ルをおくりたい。

作曲事始め

昭和42年作品発表出版の「ふるさとの歌声」ビクタ−レコ−ドLP盤のジャケットの一部です

昭和三十五年、舞踊家の島田雅行先生から呼び出しがあり、歌人で作詞家の久保井信夫先生<愛馬進軍歌の作詞者>を紹介された。「編曲をしているんだから作曲もしませんか」と「五色台音頭」の作曲、演奏、録音、レコ−ド制作の依頼でした。
当時の五色台は青リンゴが特産で「ハア−リンゴナ− リンゴ花咲く五色の峰の」の一節があったが、このリンゴ畑はやがてミカン畑に主役を譲り、青峰がみかん峰に・・・と、歌にとっては悪いシャレではすまされなくなったものでした。でも、十幾年を経て、今度は赤いリンゴが観光農園としてデビユ−し、胸を撫で下ろしたものでした。
この「五色台音頭」は高松市観光協会の肝いりで「香西囃子」とあわせてレコ−ド出版され、島田先生の振付で、現在でも地元民踊グル−プで踊られているようです。打合せの場で、島田先生が「こんな振りで・・・・」と口三味線で見せてくださった手振り足振りが、曲想やテンポに生かされたのは言うまでもない。また、お囃子の文句もその場で相談してきめられました。作詞・作曲・振付の立場でお互いに意見を出し、キャッチボ−ルをしながら制作する「香川創作歌謡研究会の歌作り」の姿勢は今に受け継がれてきました。そして私の作曲活動もこの日から始まったようなものでした。
昭和四十二年、「ふるさとの歌声・大川かづゆき作曲集」をLPレコ−ド出版したが、この時「五色台音頭」や「瀬戸大橋音頭」を唄った柏野美智子さんは、翌年高校卒業後、上京してレミノルフオンレコ−ドから歌手デビユ−し、数年後帰郷して結婚、幸せな二児の母となり、ふるさとの歌づくりを目指す「香川創作歌謡研究会」に参加して、現在までに百曲近い歌唱曲がある。
昭和六十一年、完成なった瀬戸大橋の新しい歌「瀬戸大橋音頭」<作詞・河西新太郎>を松本美智子<旧姓・柏野>さんが再び唄い、ビクタ−レコ−ドから全国発売されたのも縁でしょうか。
詩人で作詞家の河西新太郎先生から「あなたの行きつけの店で食事しましょう」とお声がかかったのは昭和三十六年の夏でした。当時の塩江町長・上田満氏がご一緒で、町の花「合歓」をモチ−フにした「合歓の歌」「合歓の湯の町」の歌詞<河西新太郎作詞>を見せられました。
また上田さんは、町を出て働く若者のために成人式を正月にやりたい。そしてこの歌を贈りたいとの願いを込めた、自作の「ふるさとの歌」「成人式に寄せて・あの日の誓い」の二曲を提示され、
併せて作曲することになり、翌年にはいずれもレコ−ド出版されました。
河西先生とはこの曲がご縁で百曲を越える作品があり、久保井先生ともども、作編曲者としての私を推薦し、育てて下さったことを忘れることはできない。両先生も、上田さんも、すでに逝かれてしまった今、折に触れて頂いたアドバイス、じかに見せてくださった「人としての生き様」を生涯の糧にしたいと思うわたしです。

高松リズムシンフオネット録音風景


「ゲイ・シスタ−ズ」
女声のコーラス・グループす。、結成当時は吉田洋子/川崎妙子/善生博子/八木典子の4名に男声の三木崇央が加わり「ゲイ・シスターズ<プラスワン>+1」として、ステージやレコーデイング活動を行つていたが、暫くして参加した柏野美智子はレコ−ド会社のオ−デションに合格して上京。その他のメンバ−も結婚や転勤、また演奏曲の多様性に対応するための追加拡充が行われた。
なお、この女声コ−ラス結成に先立って、すでに活動をしていたグル−プにNHK高松放送合唱団がら選抜した「HPラジオ・スインガ−ズ」「県庁シンギングトリオ」があり、この放送やステ−ジ活動の経験が「ゲイ・シスタ−ズ」の編曲や運営に生かされ、役だったことは言うまでもない。
また幅広い合唱曲に対応するため「グリーン・セクト」「グリーン・カルテツト」を併設するなど、設立以来参加されたかたがたは、帰郷して再び参加した柏野美智子をはじめ/六車ひとみ/藤田くみえ/石田美代子/堀和代/穴吹トシ子/七星千代子/穴吹和世/渡辺素子/前田惠子/伊賀安子/安西佳代子/喜多典子/小倉節子/佐藤くみ子/今田靖/小松正廣その他のみなさん。「県庁シンギングトリオ」のメンバ−は、熊田君江/小西英子/鶴綾子。
何れも曲想に合わせてソロもこなせるかたがたで香川創作歌謡研究会の目指した「ふるさとの歌づくり」を支えてくださつた皆さんでした。そして私にとっては常に制作意欲をかき立てて下さったことに、今も深く深く感謝しているのです。
県庁シンギングトリオ ゲイ、シスタ−ズ ゲイ、シスタ−ズ+1<今田靖>
第4次編成「最後の」ゲイ、シスタ−ズ <左から高田トシ子・市原和代・松本美智子


コンセプト
その1
昭和43年11月23日政府は東京千代田区の日本武道館で、天皇皇后両陛下をお迎えし、各界代表約一万人を招いて「明治百年記念式典」を開いた。同じ日香川県でも、高松市福岡町の県立体育館で、青少年千二百人を含む各界代表弐千五百人を招待して、「明治百年記念式典」が盛大に行われた。
この式典の日から約二ヶ月ほど前、県の福祉事務所勤務で、たまたま職員研修に参加していた私に、秘書課長からの「授業が終わり次第知事室に来てほしい」との電話があった。<当時の知事は故・金子正則氏>

当時県では、明治百年を記念した広範な施策や記念イベントをまとめていた最中で、かって広報課時代に各種行事に取り組んできた経験から、所謂「お呼びだしだな?」と予感を抱いての出頭となった。
6時もすぎ夕色の濃い秘書課は閑散としていて、すぐに知事室へ通された。百年記念事業のおおかたは纏まり、既に予算も出来上がっていた中で、記念式典だけが知事のところで保留されていた。「お役所仕事で卒はないが、インパクトが無い、面白くも無い、なんとかならんかのう」と、これは君がやれ・・・と言う指示なのです。・・・・いろいろ出た話の中から知事のねらいを要約すると、記念式典はこれまでの百年にさよならして、これから始まる新しい時代を若者に託したい。式典の構成演出は参加した人々がアッと驚くようなものを考えて・・・そして歌もつくって音楽にも力点を置いてはどうか。とにかくまかすから予算はいるだけ使いなさい。そして私からは、スタッフに南四郎氏と河西新太郎氏のご協力を求めたい旨お願いした。「これできまり」と腰を上げられた知事に、「ちょっと待って下さい。このことは知事さんと私だけの話ですから、所管のセクションを説得できません」と申し上げた。「わかった」とおっしゃって明治百年記念の全体施策を担当している企画部の課長<本省から派遣された>が呼ばれ、「大川君にすべて言ってあるから、そのとおり進めてください」・・・所管課ではずっと待機していた様子であった。
お役所仕事では、これは実に問題のある進め方で、これから始まるであろう「抵抗」「嫌がらせ」「陰口」「主導権の取り合い」そして問題が起きると「責任転嫁」うまくいった場合の「功名争い」・・・・・受講中の研修を止め、式典を担当する広報課の兼務辞令が出て福祉事務所へも迷惑をかけることになるわけで「相当の覚悟を決めなくちゃ」と思ったものでした。
数日後、南四郎氏・河西新太郎氏ともども知事室で打合せ、県連合青年会の協力を得て可能な限りの「祭りの獅子舞チ−ム」を動員<サンバリズムで乱舞>、幼稚園から小中高校生の演技参加<鼓笛隊・体操・マスゲ−ム>、「司会者」を廃して音楽と照明のみでの進行。楽団は高松交響楽団を中心にクラシックからジャズまで演奏できる60名規模の管弦楽団とし、混声合唱は100人編成、新しく作る歌は、作詩を河西新太郎氏に、式典曲「明治百年頌歌」は三木一治氏が作曲、みんなが唄える歌声風な歌「歌声高く」の作曲と、すべての編曲指揮を大川が担当。また知事から「挨拶は短く・少なく」私自身、もし詩を書いて読めと言うのなら暗誦してもよい・・・・とまで言われたのは今も印象深く想いだされる。「思い切ってやりなさい・・・貴方達にまかしますよ」と言う気持が読みとれる言葉でありました。
本稿は「金子知事とコンセプト」についての話なので、これ以上具体的な構成演出の説明は省略しますが、当日の模様の一部は<別項の「アルバム」にも写真を掲載してあります。また同年11月24日の四国新聞<地元紙>には詳しく書かれているのでご興味のある方は図書館ででもお調べください。
{注}この仕事のあと、私は程なく観光課へ配属され、観光PRを担当することになる。

式典ステ−ジ 100人編成の混声合唱団

その2
1970年大阪千里丘で開催された日本万国博覧会のメイン会場の一つに「お祭り広場」あった。その広場に日本全国の祭りや郷土芸能が総参加した「日本の祭り」に、我が香川県からは「さぬき囃子」が主催者からの指名で出場した。
この「日本の祭り第3部」には、「よさこい鳴子踊り」や「佐渡おけさ」など有名郷土芸能との共演で、昭和45年7月24日から26日までの3日間、選抜された100人の香川県民踊団が「さぬき囃子」を踊りぬいた。

これに先立つ一年前のある日の夕方、秘書課長から電話があり、「今日の退庁後、時間が取れれば知事が会いたいそうですが」との「お呼び」があり、瓦町近くのすし屋へ案内された。カウンタ−に着くと金子知事は運転手さんに「今からはプライベ−トの時間だから帰って下さい、帰りは自分で帰りますから」と。何の話なのかわからないまま落ち着かない私であったが、学生時代に小遣いを工面して歌舞伎をよく見にいった思い出話になって「今日は演出の話だな」と朧気ながら知事の意図が推察できるようになった。
「お祭り広場」とは、今で言えばド−ム球場のような巨大空間で、世界のカ−ニバル・民俗芸能・ポピュ−ラ音楽・ジャズをはじめ「世界の花まつり」など企画ものが連日催される万博屈指のイベント会場でした。「日本の祭り」の場合は、総プロデユ−サ−の下に幾つかの出し物を所管指導するサブ・プロデユ−サ−<何れも著名な演出家で「さぬき囃子」には「飛鳥亮」>がついて各県の現地に何度も出向いてアドバイスをする・・・と言った仕組になっていました。例えば「佐渡おけさ」の場合、飛鳥先生のアイデイアで超巨大な「廻り燈篭」を広場の中央に据え、先ず影絵で踊りを見せて・・・という具合いで、「さぬき囃子」の演出も大きな課題でした。県の観光課で観光PRや万博の事業を担当し、県観光協会の事務も兼務していた私が、この「さぬき囃子」の作曲者であったことは、偶然とは言え奇妙な取り合わせで、当時、一部の民踊関係者から抗議の投書が来たこともあったようでした。
この「さぬき囃子」の演出で先ず考えたことは、この「さぬき囃子」は、香川の観光名所を「本唄」に、狸の伝説が「お囃子」に唄い込まれており、踊りの隊形は、流し踊りの華麗さ<島田雅行振付>と狸踊りの軽妙さ<東尾大穂振付>を活かすこと、「お祭り広場の巨大空間」に対応するため、「源平屋島狸の伝説」をモチ−フに、源氏・平家両軍の白旗・赤旗と大団扇を流し踊りの列に組み入れる、軽妙な狸おどりの群れには「縫いぐるみの大狸・子狸を入れる」<これは飛鳥先生のアイデイア>、音楽は「お祭り広場」の残響が強いので、生演奏を止めてテ−プ録音を使う・・・など飛鳥氏との協議で基本プランが出来あがっていった。
金子知事の歌舞伎話に戻りますが、何代目団十郎とか歌舞伎スタ−の名前が次々にでて、六方<ろっぽう>を踏む話になると殊更に力がはいるくだりで、私は「日本の伝統芸を活かした演出こそ世界の人々にアピ−ルする意義があるんだよ」とおっしゃっているように受け取れたのでした。「さぬき囃子」には触れないで、大事なアドバイスを頂いた夜でした。
「お祭り広場」いっぱいに繰りひろげられた「さぬき囃子」の踊りの群れが華やかに退場したあと、音楽は「樽のリズム」だけになり、真っ暗な広場の真中に「東尾大穂」演じるコミックな狸おどりのソロがスポットライトを浴びて浮かび上がり、あたかも「花道の六方を踏む名優の如く」満場の注視を浴びながら、広場をゆっくりと横切って退場。天井に近い大きな電光掲示板にはその間ずっと「満月の絵」が浮かんでいた。万雷の拍手に大成功が確信できた一瞬でありました。
実は、初日のリハ−サルの直後、私は総プロデユ−サ−に呼ばれて褒めて頂き、「リハ−サルで何か変更したり、手を加えることがあれば、照明もロボット等の動きについても希望通りにしますよ。すべて任します」との有り難い言葉があった。サブ・プロデユ−サ−の飛鳥先生によれば異例のことのようであった。
<別項の「アルバム」に写真と記事があります。下の写真と併せてご覧ください>
なお大狸は民踊監督の島田雅行氏が演じ、子狸には小学生の可愛い女の子が入って健闘した。縫いぐるみの中は灼熱地獄であったそうな、有難うございました。

縫いぐるみの親子狸 円陣で踊る
源氏平家の白旗赤旗・こんぴら大団扇 お月様とロボットと親子狸
万博・香川の展示を見る金子知事夫妻 踊り浴衣のデザインは和田邦坊


讃岐うどん・覚え書き
第一話・うどんデビユ−
昭和38年6月「日本観光協会第5回会員総会」が高松市で開かれた。3大都市以外の開催は初めてのことで、観光立県を目指す香川県としては、万全の取り組みで臨んでいた。
当時私は、県広報課に在籍していたが、広報以外の仕事で、アトラクションの企画と公演を依頼された。「ミユ−ジカル、バラエテイショ−・さぬきばやし」の公演です。源平屋島の戦いには舞踊曲を新しく作り、こんぴら、塩田、瀬戸の島、オリ−ブ、一合まいた等の盆踊りなど、舞踊・民謡踊りを総て生演奏で見せる、当時としては珍しいショ−で、NHK高松放送劇団や舞踊・民踊団体を動員しての大騒ぎを演じる羽目になっていました。
ところで、かんじんのお話はこのショ−ではなく、高松市民会館での「昼食のメニュ−」のお話です。
県観光課や観光協会のスタッフが色々考えて、幾つかのメニュ−を用意していたようでしたが、結局、金子知事のところで「手打ちうどん」に決まったのです。総会出席者証に「ミニ団扇」を渡して、記念のお土産にもなるアイデイアと併せて讃岐うどんは大受けのようでした。「讃岐手打ちうどん」が讃岐のうまいものとして全国にデビユ−した瞬間でした。

第二話・うどんの味
昭和45年、大阪千里で開催された「日本万国博覧会」の「地方自治体館」では「全国都道府県の日」が実施され、5月13日から16日の4日間は「香川県の日」で、広場ステ−ジでには、「金比羅船々・一合まいた・讃岐ばやしなどの郷土芸能」が出演し、民芸、工芸などの特設展示館では、香川の彫金・彫漆やカンカン石、黒松<盆栽>等が出展されました。特に黒松<盆栽>は売って欲しいと大好評で、急遽、万博会場近くに特設された即売場は大繁盛であったそうな。
この「地方自治体館」附属の食堂には「香川の日」期間中、専門業者に委託して「讃岐うどん」を販売したのですが、地元新聞の取材記事では「高くてまずい」と評判がいまいちのようでした。そこで県観光課では直ちに会場でアンケ−トをとることにしました。結果は「良い」「悪い」半々で、関係者の判断では「まあまあ」とのことでした。
「県政記者の方々は、案外、県庁近くのうどん屋さんの味に馴染んでいるからでは・・・・」とか、その県庁近くのうどん屋さんの味にしても、「それぞれご贔屓の店があり、人さまざまで好き嫌いがあるから・・・」と知ったかぶりの批評家も輩出するなど、「味」のことはなかなか難しいもののようでした・・・・・・。
最近のうどんブ−ムで、いわゆる「通」の方々の解説や、テレビのうどん探訪で「褒めたり」「解説したり」「感嘆したり」表現する言葉が種切れではとか・・・マンネリ化では・・・・と心配しながら視てるのも、また一興ではないでしょうか。<失礼しました>
私にとって「うどんの味」は、「親父の背中の思い出の味」なのです。うどん粉を練って茣蓙で鋏んで踏む行程がありますが、親父やお袋が重しを増すために私たち<幼児>を替わりばんこに「おんぶ」してくれたものでした。うどんを打つ時には何時も「おんぶ」して貰えた思い出が、私には「懐かしいうどんの味」になっているのです。

第三話・うどん音頭がテレビに
昭和50年5月31日放送の「宮田輝の日本縦断−ふるさと」の公開録画が4月27日、庵治町竹居観音の浜でありました。
これに先立つこと約半月前、瀬戸内海放送の十河制作局長さんから、当時県の「デザイン室」勤務の私に電話があり、田町近くの飲み屋でお会いしました。「うどんの歌つくらへんか」とのお話に「実は今、讃岐うどん音頭を制作中で詞も曲も出来ているんですが、何かの曲のレコ−デイング演奏録音に便乗出来ないかと、チャンスを待っているところです・・・」と申し上げたら「全国放送のテレビ出演の話があるから、すぐに間に合わせて出そうよ」とのお話。自主制作だから費用の捻出が問題で、「うどん早食い競争のだしもので参加する<かな泉>の社長さんに相談しては」と言うことになり、歌手・コ−ラスの方々には特に協力をお願いし、<かな泉>さんにも演奏録音費用の一部を負担して頂き、録音ができました。公開録画には「柏野みちとゲイ、シスタ-スの皆さん」が出演゙しました。
この「讃岐うどん音頭」は昭和52年3月、四国民踊研究会<島田雅行先生>から「源平ながし」の制作を依頼された折、レコ−ド出版するとのことで、裏盤に「讃岐うどん音頭」を入れ、2曲ともども民踊団体のレパ−トリ−として普及を図ろうと言うことになりました
「讃岐うどん音頭」の歌詞中、「お囃子」にうどんのメニュ−をいっぱい羅列してありますが、これは作曲者である私が、いわゆる日本民謡独特の「さわぎのリズム」を取り入れようと思い作ったもので、<かな泉の泉川社長さんからご教示頂いたヒントを整理して>本唄の作詞は河西新太郎先生にお願いしました。<このホ−ムペ−ジ別掲の「ニュ−リリ−ス」参照>

宮田輝・日本縦断出演の讃岐うどん音頭 さぬきといえば−うどん<県制作ポスタ−>

第四話・うどんのキャッチフレ−ズ
昭和48年、私は観光課から新しく開設された「デザイン室」に移籍させられました。この室は、県の各部各課の実施する県民向けのPR活動、媒体の制作、各種イベントの点検、助言などを行うことになっていて、例えばPR用印刷物にしても、催し物であっても、「受手である県民の側に立って、良くわかるものを目指して下さい。役所側の一人よがりにならないようにチエックしてください。場合によっては、デザイン室のチエックがなければ発注・施工を止めても・・・・」これは金子知事からの特命でもありました。
関係部課から随分嫌がられ、抵抗もされる毎日でもありました。でも今振りかえると、皆さん立場立場で言い分があったでしょうし、こちらも多少の技術と経験を活かしたいし、そして多少の使命感も持っていたわけですから、お互いさまです。この歳になって思い起こせば、あの頃も、あの人々も、、みんなみんな懐かしい限りです。
話がちょっと脱線しましたが、当時観光課時代にやりかけていた「讃岐うどんキャンペ−ン」も後任の方からの相談を受けて、パンフレット等の制作をしていましたが、企画制作の基本キャッチフレ−ズに「讃岐といえば・うどん」「うどんといえば・讃岐」を掲げており、実際に画用紙に書いたものを当時デザイン室の壁に張ってありました。これに並行して別途私的に制作中の「うどん音頭」もコンセプトは全く同じものでした。<上掲の県制作のポスタ−写真は昭和50年頃の制作で、「さぬきといえば−うどん」のキャッチフレ−ズが使われています>この頃の私は、金子知事に代わって新しく就任した前川知事の「知事公室の広報課」で県政広報の企画とグラフイックデザインを担当していました。

第五話・うどんの行方は
この様に、全国に向けての「うどんキャンペ−ン」が動きだした1970年の大阪万博以後、県内の手打ちうどん店も徐々に増え始め、当時、国鉄の<今のJR>の急行停車駅の近くには、どうした訳か「讃岐うどんの店がある」と言われだした。当時、群馬県の経済部長が会議で来県した時、「うどんは群馬が本場だと思っていたのに香川にお株を取られましたよ」と言ったらしい。
また県内では、「食い物を観光PRに使うのは邪道ではないか」とある市の観光課長から批判めいた意見があり、聞きただすと「あるPR関係の専門家が言っている」との御返事であった。当時、高知の皿鉢料理・徳嶋では祖谷の粉ひき蕎麦・愛媛松山の蒲鉾・香川小豆島のオリ−ブやそうめん・・・・と一部には食い物の観光土産宣伝は認知されていた筈なのに?と首をかしげるむきもありましたが、今思い出しても最近の盛り上りからは隔世の感があるようです。
でも、この衰えを知らぬ「うどんブ−ム」はこれから、どうなるのでしょうか?
カラオケがかって全盛期を迎えるにつれ、コンク−ルごっこ、審査ごっこ、教室ごっこ、先生ごっこ、そして歌手ごっこ・・・とエスカレ−トして、今はもう、秋風をふと感じるような・・・・・・・と思うにつけ、うどんこそは、暮らしに根付いた郷土料理として受け継がれ、いつまでも讃岐のコミニテイ−に育まれたうどんであって欲しいと思う一人ですから、関係者に叱られるかもしれませんが、うどん屋ごっこ、評論家ごっこ、マニアごっこ、そしてカラオケと同じようにマスメデイアや、業界の「それゆけ参入」によって、かって全国的に賑わいを見せた「テ−マパ−ク」の終末のようにならないことを願っているのです。